「咸宣」かんぎ

 咸宣とは、「ことごとくよろしい」と読み、英才も、鈍才もみなそれぞれよろしいという意味があるそうです。
 実はある本を読んでいて、江戸時代の教育者、広瀬淡窓(ひろせたんそう)という人物に出合いました。
 大分県日田市は、九州の小京都といわれる美しい町で、岐阜の長良川とよく似た三隅川(筑後川の上流)の清流は鵜飼の名所、温泉郷としても有名で、古い町並みの中心に、広瀬淡窓の生家・資料館があって、多くの観光客が訪れますが、日田市は今でも不便なところだそうです。日田は江戸時代に幕府の代官所があり、広瀬家はその御用をつとめる豪商でした。淡窓は、生まれつき体が弱く、病気のデパートといってよいくらい、たくさんの病気にかかりながら、かえってそれらを自分の学問や修養の糧としました。つまり「禍い転じて福となす」ことを実践した人です。
 24歳で初めて「桂林荘」(けいりんそう)という塾を開き、門弟が次第にふえていきますが、寝食をともにして、学問に精進する師弟一如のうるわしい姿をうたった「桂林荘雑詠」が残されています。
 「道う(いう)ことを休(や)めよ他郷苦辛(たきょうくしん)多しと。同胞友有り自ら相親しむ。紫扉暁(さいひあかつき)に出ずれば霜雪の如し。君は川流を汲め、我は薪を拾わん。」―故郷を離れて学ぶのは苦労が多いなどというのはやめよう。同じ衣服を貸し借りして着るような親しい友もできたではないか。朝早く起き、とびらを開けて外に出ると、霜が一面に降りてまるで雪のようだ。さあ、君は川から水を汲んでこい、私は山から薪を拾ってこよう、朝飯のしたくだ。―
 桂林荘が狭くなったので、移転して「咸宣園」と改称します。当時、身分制度のある世の中で、英才も鈍才も上下貴賎を問わずみな入門してよろしいとしたそうです。
教育者として淡窓は、実に三千人からの弟子を育てました。松下村塾は、少数精鋭の塾風でしたが、咸宣園は対象的な塾で当時日本一の私立大学だったといえます。
 淡窓は、咸宣園いろは歌のなかの一首で詠んでいます。「鋭きも、鈍きもともに捨てがたし、ととに使いわけなば」
 人間は、人格はすべて平等であることは、いわずもがなのことでありますが、鋭き者、鈍き者は現実在るわけであります。それを個性としてとらえ、それぞれの長所を生かし、伸ばす、教育手法は、今においても学ぶ価値のあるものです。教育の真髄は、不変のものであることを改めて、広瀬淡窓と出会って確信しました。
 英才はさらに英才に。鈍才を英才に。英才も鈍才も皆ことごとくよろしい。おのおのの長所を生かし、伸ばす温かい教育を師弟一如ですすめていきたい。
 秋の夜の読書の成果であります。
(平成15年度11月)

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