「知覧にて」

「知覧にて」

鹿児島県薩摩半島のほぼ中央部に知覧町がある。
鹿児島市街から車で約1時間位であろうか、山を登りつめたところに、桜並木と石灯籠が道路の両脇にずらっと立ち並んでいる。

この石灯籠は一体何を意味しているのだろう。
1316基が立ち並んでいるという。
昭和20年3月1日、硫黄島を占領した連合軍の反攻作戦は益々激しさを増し、同年 3月25日、アメリカ軍は遂に沖縄防衛戦の一角である慶良間列島に上陸した。
最悪の戦局を迎えた当時の日本の軍部は、この劣勢を一挙に挽回する方策として、フィリピンのレイテ湾作戦以来敢行していた、特別攻撃隊を強化することを決定した。
沖縄に最も近い、本土最南端の飛行場である知覧飛行場が、最前線陸軍特攻基地となり、日本各地から隊員が続々と集結した。
この隊員のほとんどは、弱冠17歳から22歳ぐらいの若者達であった。
隊員はこの知覧の地に僅かの滞在ののち、沖縄へと飛び立ったという。
そして、飛行機の胴体の下に、250キロ、あるいは500キロ爆弾をつけて、基地を飛び立ち、南の島の雲ながるる果てに飛行機は二度と帰ってこなかった。
この特攻機は、薩摩半島の最南端にそびえ「薩摩富士」とも呼ばれる標高922メートルの開聞岳を目印に、西南に向かって飛んで行った。
何度も何度もこの開聞岳を振り返り万感の思いでこの山に挙手の礼を捧げた少年兵も居たという。
知覧飛行場から目的地である沖縄まで約650キロメートル。
約2時間から2時間半の所用時間だった。
その間彼らの胸を去来したものは、一体何であったろう。
万感胸に迫り来るものがある。
知覧から飛び立ち南の海と空に散っていった隊員は439名だった。
1316柱の意味は特攻基地の本部が知覧にあり、ここから出撃の命令がくだり、万世、都城、台湾、熊本、鹿屋、太刀洗、その他の場所から飛び立っていったため、その隊員達の霊も一緒に慰めようと、「知覧特攻平和会館」が石灯籠の建立事業をすすめているのである。
基地の跡の東側に、慰霊の平和観音堂があり、銅像が建ち、さらに、隊員の遺品を永久に保存するために知覧特攻平和会館がある。
この平和会館の入館者は1日千人を超える入館者があるという。
入口の右側から拝観することにした。
すでに展示品をみている拝観者のそこここから鼻をすすり、涙を拭き、目頭をおさえる姿がみられた。
尋常ではない。
よく旅先で何々記念館など興味のひくものを拝観することがあるが、明らかにまわりの雰囲気はそれとは違う。
拝観者はみな真剣で何かを考え、何かを感じている様子が手に取るようにわかった。
私もその一人であった。
その展示品とは特攻隊員の遺書である。
どれもこれも胸に迫り来る沢山の遺書の中から、明日死出の旅に赴くというのに、なんと優しい青年だろう。
なんと素敵な精神の持ち主だろう。と心動かされた遺書があった。

『遺書、母を慕いて』
「母上お元気ですか。長い間本当に有り難うございました。我、六歳の時より育て下されし母。継母とは言え世の此の種の女にある如き不祥事は一度たりとてなく、慈しみ育て下されし母、有難い母、尊い母。俺は幸福だった。遂に最後まで「お母さん」と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが何と意志薄弱な俺だろう。母上、お許し下さい。さぞ、淋しかったでしょう。今こそ、大声で呼ばして頂きます。お母さん、お母さん、お母さんと。」

涙が止まらない。
この青年の幼年期。
母の温もりが最も欲しい時に母はなく、少年期には、本当の母でない人がある日突然、母として家庭に入ってきた。
その解らぬままの子供心の戸惑い。
思いを馳せればさらに涙は止まらない。
そして、思春期に入り、実の母ではないが、母として実の母のように自分を可愛がってくれていることを感謝しつつ、「お母さん」と呼べない、はにかむ自分が居る。
いざ、出陣の時、幼き頃を思い浮かべながら、あんな事があった、こんな事があった。と思い出しながら。
そうだ、この世を去るにあたり一番の心残りは、可愛がってくれた継母への感謝の言葉、「お母さん」と呼んでやれなかったことだ。
実父ではなく、継母への思いを、切々と綴ったこの遺書には、今こそ現代に必要な、子を思う母、母を思う子の強い絆を、弱冠18歳の宮城県出身、相花信夫少尉の心情からくみ取ることが出来た。
さらに涙は溢れ、とどまることがなかった。
私は、軍国主義者でもなければ、戦争を賛美する人間でもない。
二度とこのような悲劇、そして、これから次代を担うべき若者達を戦争によって、死地に赴かすような時代を創ってはならないことは言うまでもない。
しかし、今年もあった、成人式の若者の荒れが。
何とも嘆かわしい。
これが、如何に時代背景が違うとはいえ、同世代の若者かと。
家族を思い、友を思い、ふるさとを思い、国を思う。
そんな、優しく、そして、素敵な青年を育て上げる責任は、教育にあると確信した。

「川口の教育」 平成18年3月号より

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