「体磨き 心を鍛え 智を得うれば 平らき人こそ 世の為になる」

 先日、ある大学教授の論文を読んだ「楽しくなければ学校ではない」という標題である。
 論文では、子どもたちのアンケートの結果を出して、学習塾がいかに子どもたちの心をつかんでいるかを思い知らされたという。塾の先生の教え方はわかりやすく、子どもたちは塾の先生を尊敬しているという。単純に学校と塾を比較して、どちらがよいかという結論づけるつもりはないとことわっているが、私にとっては心穏やかではなかった。
 塾は少人数あるいは個別指導である。学校は、現時点において1学級の中に学力・能力の差がある中で、一斉に指導している。条件が違い過ぎる。アンケートの結果については、真摯に耳を
傾けなければならないと考えた。さらに「楽しくなければ人生ではない」楽しくなければ、勉強ではないと続き、学校が楽しくなければ、子どもの教育は、むしろ学習塾に任せた方がよいということにもなりかねないと述べている。また、公立学校のカウンターパートとして、私立の小中学校の設立を奨励して、強力な競争相手として、公立学校の教育に今以上に緊張感や危機感を与え、学校の改革を一層促す契機となるかもしれないと言っている。
 この論文では総じて、戦後60年に渡る公教育、とりわけ、公立学校の教員のだらしなさ、危機感のなさを指摘している。不登校、学力低下、青少年の凶悪犯罪をもたらしたことである。60年の約半分を公立学校の教師をしてきた私にとって、この批判、指摘は受けとめるところもある。
 しかし、受けとめるわけにはいかない点も多々ある。
 先ず「楽しくなければ学校ではない」「楽しくなければ人生ではない」「楽しくなければ勉強ではない」という主張である。30年間の経験から、学校というところは、楽しいこともあるが楽しいことばかりが揃っているところではないと言いたい。子どもは、楽しいことやうれしいこと、辛いことや苦しいこと、悲しいことなどを経験して、成長していくのである。勉強だって、楽しく出来ればよいが、わからなく辛く困難なことだってある。先生や友だちに、解らないところを教わり、自分でも努力をして解った時に、本当に勉強の楽しさを得るのだと思う。むしろ、そのことの方が確実に学習の大切さ、楽しさを味わうことになると考える。私は「楽しい人生が送れた人が、私たちの先達に、どれほどいたか。苦しいこともあったが楽しいこともあったというのが本当ではないか」と思う。言葉の揚げ足をとるつもりはないが、苦難があって、それを乗り越えていく過程や乗り越えた時に、人生の充実感、楽しさがあるのだと思っている。
 さらに、公立学校のカウンターパートとして、私立の小中学校を競争相手として設立を奨励する件については、正に暴論である。私立の小中学校では、学力や経済力をもっている子どもや保護者を選べるのである。公立小中学校は、学力や経済力で子どもや保護者を選ぶことは出来ない。はじめから、公立小中学校と私立小中学校では、同じ土俵には登れないのである。公立学校が私立学校と対抗するには保護者に学校の教育方針を理解していただき、共働して子どもの教育をすすめていくしかないのである。公立小中学校には、全ての学校に、知・徳・体のバランスのとれた、平らな人格を目指した、「学校教育目標」がある。子どもたちの心と体と知性を鍛えあげ均整のとれた人格をつくりあげることが、公立小中学校の使命であり、私立学校にはない特色ではないかと思う。
 56期の卒業生水野君は、昨年の校長面接の時に、将来は消防士となり、レスキュー隊に入り人命救助をしたいと語った。「現在、父が尊い命を助ける仕事をしている。僕も是非、父の仕事をしてみたい。そのために、心と体を鍛え、勉強に励みたい」と……。
 9月23日、TBSTV「海上保安庁 密着24 時」という番組で、インタビュアーが海上保安庁の若者に「何で潜水士になったのか」と訊ねたところ、「人命救助をして「ありがとうございます」の一言がうれしい。その一言のために、恐いけれど、この仕事をやっている。」と答えていた。
 私は、このような少年、青年が育っていることを誇りに思う。人生の楽しさとは、こういう使命感の中から生まれてくるのではないか。人の為になること、また、楽しけれである。心を磨き、身体を磨き、智性をさらに、さらに磨いていこう。3年生は進路に向かって。1・2年生は、新人戦頑張ろう。自ら、納得する人生を創るために。
(平成17年度10月)

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