「大川小 七十余名の 幼子が  学んだ黒板 無言で語る」

 6月25日(士)午前5時45分。知人2名と石巻に向かった。東北自動車道の仙台へ差し掛かると両脇に東日本大震災の爪痕があちこちに現れてきた。木は倒れ、電信柱は折れ曲がり田畑は水に浸って、瓦礫が積まれ、車や船は横転しあちこちに散らばっている。このような光景を見ながら石巻に入った。見渡す限り瓦礫、破壊された家屋が散在している。津波の爪痕は凄まじいものだ。車を降り異臭、ハエと共に私の目に大きく止まったのは、石巻市立門脇(かどのわき)小学校の校舎の姿であった。校舎が燃えてしまっている。窓ガラスは割れ、校舎は無残にも黒焦げになっていた。家を失い、学校を失った子どもたちはどんな思いだろう?そんなことが脳裏をよぎった。励ましの言葉は、ただただ、頑張ってと。その言葉しか浮かばなかった。門脇小学校の隣にはお寺があった。知人はこのお寺の畳200枚を運び出したそうだ。このお寺にあるお墓もあちこちで、倒れメチャメチャであった。仏はこの惨状に、さぞ嘆き悲しんでいることだろう。
 石巻には漁港から向かっていくと小高い山がある。日和山(ひよりやま)である。ここにある日本製紙のグラウンドで指導者と共に白球を追っている12、13名の少年野球チームがあった。指導者の話を聞くと、皆、家を失い避難所生活をしているという。残念ながら、内2名の少年が犠牲になった。被災した3月11日。この日和山に登れた人は助かったそうだ。日和山から人々は固唾をのんでいた。津波と追いかけっこをして助かった人。飲み込まれてしまったお婆さんのその姿を目のあたりにし、今も、その様子が浮かんで離れないという。助けたくてもどうにもならない、凄まじい惨状だった。想像を絶するものがある。少年野球チームの監督が語ってくれた。
 実は石巻に来たのは、この少年野球チームを励ますことにあった。また、偶然にも、本校職員の日野教諭の実家がこの日和山を越えたすぐ近くにあり、幸いにしてご家族、そして身内の方々は無事だったそうだ。本当によかった。この日、丁度帰省していた日野教諭と、その従兄弟の案内を受けた。石巻の日本製紙に勤める従兄弟の方の話では地震があって社内放送が入り直ぐに高台に避難しなさいと言う指示があったという。あの時、工場内のどこか一カ所に集められていた
ら180数名の社員の命は津波にさらわれていただろう。全員無事だった。適切な指示をしていただいた上司のお陰だと語っていた。
 石巻市立大川小学校に足を伸ばした。祭壇が設けられ、ジュースやお菓子、人形など、犠牲となった子どもたちの霊を慰めるためにたむけられていた。丁度、一人の僧侶が読経をあげていた。大川小学校の中に入ってみた。悲しい雰囲気が漂ってくる。さぞ、無念だったろう。生きたかったろう。70余名の犠牲となった子どもたちが学んだ教室に入った。すでに、机いす等は片づけられ、中は閑散としていた。そこに、線香をあげる器が置かれていた。子どもたちの楽しげに活動
していた声が聞こえてきそうな錯覚におちいった。教室の中央には子どもたちが沢山学んだヘドロの付いた黒板が崩れ落ち、しばらく供養のために立てかけられているような感じがした。この黒板でいっぱい先生に教わったんだろうな。この黒板で友達に教えたり、教わったりしたんだろうな。と、思ったら涙が止めどもなく頬を伝った。大川小学校の正門があったところに、百か日供養の碑が建立されていた。そこには、お母さんの手紙が供えられ、「○○ちゃん。お父さんとお母さんは○○おじさんのところに避難しているよ。早く会いたいね。」と綴っていた。
 この夏休み、家族で東日本大震災の被災地を実際に目にすることは、大変意義深いことだと思う。
(平成23年度7月⑵)
 

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