私の紹介

私は昭和二六年四月に、東京の下町、町屋というところで生まれた。
王子駅から今でも唯一残っている都電の三ノ輪行きに乗って十五分位で着くところだ。
いかにも下町という雰囲気が今でもあり、二年前に尋ねたが何となくほっとする気持ちは、私に下町気質の血が流れているからだろうか。

父は、さきの戦争でソ連(現ロシア)に捕虜としてシベリアに抑留され、零下五十度の世界を経験し、昭和二三年に奇跡的に裸一貫で帰国した人だ。
そのような中で私は三番目の子として生まれた。
父母は、子ども達を食べさせ育てていく為に必死であった。
父は朝早くから夜遅くまで働いていた。
母は内職をして家計を助けた。
しかし、それでも足りない現状であった。
私は覚えている。
靴下の継つぎ接はぎの事を。
小学生の時だった。
泥だらけになって遊ぶ年頃だ。
子供用の靴下も底をついた。
母は、父の穴のあいた靴下を継ぎ接ぎ、これを穿きなさいと私に手渡した。
大人の靴下。
子どもの私にとっては何とも違和感があった。
これを穿くのはとても気恥ずかしかった。
それに継ぎ接ぎがしてあったから余計だ。
本来ならばこんな恥ずかしい物穿けるかと、突きかえしたい気持ちだった。
でも、その靴下を私は素直に穿いて友達のところへ遊びに行った。
恥ずかしかった。

私は毎日父と母の働く姿を見ていた。
貧しいながらも子ども達にたらふくごはんを食べさせたい、おいしい物を食べさせてあげたい、そんな母の気持ちが、子ども心に痛いほど伝わっていた。

ある日、父と母の夫婦喧嘩を目撃してしまった。
「こんな給料ではやっていけない。」「俺だって一生懸命に朝から晩まで働いているんだ。」
父母両方の心情がこの会話でよくわかった。
早く喧嘩をやめて仲よくしてほしいと思った。
そんな、生きる事に、子育てをすることに真剣な姿を感じないわけがなかった。
無償の愛とはこういうものか。
特に一日の中で長い時間接していた母にそれを強く感じた。

私は子どもの頃からいたずら坊主で先生や友達、近所の人たちにも随分迷惑をかけた悪童だった。
しかし、大きく道を逸らさず、何とかここまで人生を送ってこれたのは両親の愛情があったればこそだ。
親を裏切ってはいけない。
何か誘惑があるとこれがブレーキとなった。
感謝の至極である。

南中PTA広報「〜ようこそ 南中学校へ〜 坂本大典校長先生」