「解(とき)放(はな)つ 自由の先の 裏側に  あるは責任 為して信(しん)得(う)る」

 今年も1月10日成人式が日本各地で行われた。20歳となり法的にも社会的にも大人として認知されるけじめの儀式である。多くの若者が爽やかに、そして頼もしく新聞やテレビのインタビューに応え、式にも臨んでいた。しかし、毎年のように、この成人式で一升瓶をラッパ飲みし、主催者に暴言を吐き、式を台無しにする何とも幼稚な不届き者が現れ報道される。そのたびに胸が痛み、我々教育に携わる者の責任だろうかと考え込んでしまう。
 2月10日。本校2年生の行事、儀式として、第1回立志式を開催した。立志式は、古く奈良時代のころから「大人の仲間入り」「自覚を持たせる」という意味で、12歳〜15歳になる男子の儀式として行われた元服を起源としている。中学校では1年生には入学式、3年生には卒業式というように、けじめの儀式がそれぞれあるが、2年生にはそれがない。ともすると、2年生は中学校生活にも慣れ、中だるみしがちであるとも言われている。そこで、2年生を励まし、さらに3年生となる自覚を促すものはないかとかねてより考えていた。この立志式は、全国的に見てもそれほど普及はしていないが、埼玉県内でも数校実施している学校があるようだ。
 立志式では、中学2年生の14歳は昔なら大人として扱われたこと。自分たちも時代は違うとはいえ同じ世代であることを自覚した生徒が数多くいたこと。そして、何よりも、ここまで育てていただいた父母への感謝、家族を思うフィードバックができ、立志式を迎えるに当たっての決意文には大人への自覚、家族への思いや夢などが多く綴られ、会場の多くの保護者の頬に涙がつたっていた。立志式を機に親子のコミュニケーションも図られたようである。その決意文の中から多くの名文が輩出された。また、当日の2年生の式に臨む態度は実に立派だった。
  「俺がこうなったのは、親のせいだ」「家の環境だ」「あいつのせいだ」「先生がこう言ったからだ」と言って言い訳をする奴がいる。人間には皆それぞれに境遇というものがあってそれを逃れたり、変えることは誰も出来ない。見ていて可哀想だ、代わってやりたいと思うけれども、代わることは誰も出来ない。だから、言い訳するよりも自らその境遇と逞しく対峙し、自らの力で脱出することが幸せに通じる道なのだ。言い訳し続けて自分の人生が納得できるはずがないだろう。負けるな自分自身に。
 人間の自由とは、勝手気ままにすることではない。その裏側にはいつも自分以外の自由を求める人がいる。勝手気ままに自由を謳歌すればその裏側にいる人の自由は奪われる。そして、人を傷つける。自由とは、常に責任が伴い、相対の関係をもって釣り合いを保っている。自由を解き放つならば、相手の自由も自然に尊重できる本物の自由を獲得できる人間になろう。それが出来る人は信頼される人である。
 3年生諸君。もう卒業か。おめでとう。諸君と付き合って1年経った。アメリカでは、ヒッチハイクという習慣がある。お金を掛けないで学生たちが旅行をするために、見ず知らずの人の車に無料で乗せてもらうことである。目的地に着いて学生はありがとうの一言で降りる。運転手は、君も、人を車に乗せられるようになったら同じように無料で乗せてあげられる人になってねという願いを込めて、「気をつけてね」と、ヒッチハイクの学生を送り出すそうである。温かい世の中の習慣である。
(平成22年度3月)
 

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