忘れてはならない悲惨な戦争

皆さん、こんにちは。
8月6日、9日この日を忘れてはなりません。
70年前にアメリカによって人類史上驚愕する大事件、日本に原爆が投下された日です。
20世紀末の1999年に、アメリカのAP通信社が世界の報道機関に20世紀の10大ニュースを問うアンケート調査を実施しました。
世界の報道機関が第1位に選んだのは広島・長崎への原爆投下でした。
世界人類にとってもこれは大変悲惨な大事件と受け止められていたのです。
死者は広島で約14万人、長崎で7万4,000人で、併せて20万人をゆうに超す大虐殺事件でありました。
毎年、両日には、広島、長崎で犠牲者の慰霊式典が行われています。
私も犠牲者の方々に対して哀悼の意を表する黙祷を捧げご冥福を祈っております。
このことは、マスコミは大々的にテレビや新聞等で報道されております。
それはそれで当然のことであると思います。
しかし、まだ忘れてはならない日があるのです。
それは昭和20年8月8日です。
ソ連(現ロシア)がお互いに日本とソ連は中立を守ろうという日ソ中立条約を一方的に破って宣戦布告をして満州と朝鮮に侵攻してきました。
原爆投下により壊滅状態の日本軍にはソ連軍の参戦を阻止する力はすでになくソ連参戦は日本にとどめを刺すかたちとなりました。
特に、満州開拓団避難民へのソ連軍の侵入とそれに乗じた中国人暴徒による被害は悲惨なものでした。
難を逃れようと列車に乗る母子に、ソ連軍は容赦なく銃撃を加えました。
ごく少数の残留男子が開拓団の母子・老女を守りながら南下を試みましたがその途中でソ連軍または中国人暴徒の襲撃に出くわし、暴行、殺戮、強奪、レイプによって約24万人の開拓母子老人家庭避難民が死亡したといわれています。
1953年(昭和28年)の3月の外務省調査資料によると終戦前後の死亡者は20万7980人となっていますが、実際にはそれよりも多かったようです。
さらに悲惨な状況がありました。「検証・満州1945年ー満州開拓団の終焉」によりますと哈達河(はたほ)開拓団中央グループは逃避行の途上、ソ連軍の戦車と武装した中国人暴徒集団に前後を挟まれ身動きできずに集団自決の道をたどったとあります。
「まず団長がピストルで頭部を撃ち死んだ。
続いてあちこちで自殺が始まった。
銃を手にした男たちが目隠しをした我が子、我が妻を撃ち殺した。
短刀で我が子の胸を突き自分で死んでいく母もいた。
この世のものとは思えない恐ろしい情景だった」そうです。
このほかにも同様な状況の開拓団が100団を超えてあったということです。
衛生状況も深刻で発疹チフスやコレラなどの伝染病や栄養失調で死亡する人や乳幼児が多くいたそうです。
広島・長崎の原爆投下も悲惨なものでしたが一方では満州においても同様の悲惨な状況があったのです。
8月8日この日も日本人にとっては忘れてはならない日です。
満州で非業の死をとげた方々にも哀悼の意を表しご冥福を祈るのみであります。
悲惨な戦争は二度としてはならないと思います。

坂本だいすけ

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