「花は清香(せいこう)によって愛せられ  人は仁義を以て栄ゆ」

 花は清香によって愛せられ、人は仁義を以て栄ゆ。花は美しく、清らかな香りを放つことによって人に愛されるものであり、人は誠をもって生きていくことによって栄えていくものである。という意味である。初めてこの詩を読んだときに心を奪われたのを記憶している。
 武市半平太(瑞山)は、幕末の志士、武士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市半平太と呼称されることの方が多い。土佐藩郷士・武市正恒の長男として文政12年(1829年)に生まれ、坂本龍馬とは遠縁にあたる。昨年のNHK大河ドラマ龍馬伝にも出てきた人物である。優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋の暗殺を指示し、藩論を尊皇攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での活動によって一時は藩論を主導し京都における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、文久3年(1863年)8月18日の政変により、長州藩が中央政界で失脚すると勤王派は急速に衰退し、政局が一変すると前藩主山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中生活を経て切腹を命じられ、悲劇的な最後を遂げている。同時に土佐勤王党は壊滅した。
 半平太は、剣の腕もよい。25歳の頃から、高知城下で一刀流の道場を開き、江戸では鏡心明智流の桃井道場の塾頭をつとめた。教養もある。叔父が国学者・歌人の鹿持雅澄でその薫陶を受けている。指導者としての資格も十分備わっていた。品行も方正という以上に、自己に厳しく、また、周囲の者にもそれを求め、潔癖、律儀、悪く言えば融通の利かない頑固な気質が彼であった。桃井道場の塾頭の頃、塾生の中に不心得者があったが、半平太は模範を示し、誠をもって不品行を説諭したので塾生の中での雰囲気も改まり塾生たちの技量も上達した。桃井道場の先生も半平太の人物を高く評価し、その努力に感謝したという。
 文久3年6月、半平太の両腕ともいえる同士、平井収二郎、間崎哲馬が切腹を命じられる。藩政改革のために、密かに藩の意志の反対行動をとったためだった。これをみた、長州の久坂玄瑞は半平太が同じ目に遭ってはならないと、しきりに、藩から逃れる脱藩をすすめた。だが、半平太は、それを頑固に拒んだ。俺は正しいことをしてきた。何の逃げ隠れすることがあるか。それに、侍は、恩と義理とに生きるものだ。と言って、逃げるどころか、かえってしつこく、山内容堂の前に藩政改革意見書を差し出した。半平太は、高知城下帯屋町の獄舎に投じられた。取り調べは一段と厳しくなり、下痢が続き、衰弱し、牢屋から出るにも役人に抱えてもらわなければ出られないほどであった。遺言に等しい詩が「花は清香によって愛せられ、人は仁義を以て栄ゆ、幽囚、何ぞ恥ずべき、只、赤心の明らかなるあり。」と。精一杯胸を張り、「ああ、けしからぬ世の中にて候」と。しきりに憤慨しながら慶応元年5月切腹して悲劇的な最期をとげた。齢(よわい)36歳であった。
 武市半平太の生涯を漢字二文字で表すと、赤心の二文字だろう。正に誠、まごころそのものである。至誠をもって逆賊とされた西郷隆盛と生き方が通じるところがある。心惹かれた人物である。そして、何よりも生き方に度胸がある。
 諸君。「度胸とは」、「困難に負けずにやり通す力を身につけ、実行すること。」だと思う。学校には、困難に負けずにやり通す力を身につける場が至るところにある。様々な事があると思う。負けそうになることもあると思う。負けるな。強くなれ。
(平成23年度6月)

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