「師の思い知るか知らぬかわからねど 心の糸は切れぬものかは」

 本校3年生は、6月8日(火)〜10日(木)に2泊3日の修学旅行に行ってまいりました。奈良・京都の歴史は、スケールが違う。奈良は肇国(はつくに)の遠い昔をしのびつつ、法隆寺、東大寺の大仏は、当時の日本の様子が手にとるようにわかる。そして、京都は至るところに、寺院の山、それぞれに価値と、謂れが、日本の歴史と大いに関わっている。
 2日目は、タクシー行動。5〜7名程度の班を構成し、それぞれに計画を立て、京のタクシー運転手さんのガイドを得て廻る。金閣寺あり、二条城あり、三十三間堂、清水寺等々、各々が、京の文化を満喫するという寸法だ。
 出発の前には、旅館のロビーで先生方の十分なチェックが行われた。班の人数の確認。服装は、きちんとしているか。服装のみだれは、トラブルの原因になる。先生方は大したものだ。よくよく生徒を思っているかがわかる。そうだ、青木中学校という看板を背負って、京の町々を歩くのである。一人でも、みだれた服装をしていたり、京の町を汚す者あれば、それは、青木中学校の恥である。集団生活をするということは、そういうことである。何故修学旅行に行って集団生活を体験するのかというと、それは、生徒諸君が、将来、社会の立派な構成員となるべく、当然守るべきモラルを身につけるための訓練なのだ。その為に出発前のチェックは厳しいものがあった。
私は、傍らで、生徒や先生方のやりとりをみていて「よかろう。きっと生徒はわかってくれている。」この班別 タクシー行動はきっとよい成果をあげるだろうと感じた。案の定である。夕方には、充実感と満足感に満ちた生徒の生き生きした顔が、そこここにあった。ご苦労様と心の底から思った。
 6月1日午後、小学6年の女子児童が、同級生をカッターナイフで殺傷した。所沢の女子高校生が、自殺をした。同じく、戸田市、蕨市では、中学2年の女子生徒がマンションから飛び降り自殺した。いずれも、何とも痛ましい事件、事故であったことか。私は考える。この子どもたちを、死に至らしめることなく、救うことは出来なかったものか。将来ある子どもたちである。我々大人は、この子どもたちを守る義務がある。何がこの子たちを死に至らしめたかというと、心のキャッチボールをする人がいなかったということではないか。キャッチボールの相手がいないということは、自分一人しかいないという疎外感、孤独感が、正常な考えをもてなくしてしまったのだと思う。
 3年生225名は、この修学旅行で何を得て帰ってきたのだろうか。諸君には、それぞれの進むべき道がある。言わずもがな225通りの道がある。その道をしっかり歩み築ける力をつけていこう。先生方は、必ず諸君の手助けをしてくれる。そして、諸君のお父さん、お母さんも……。
 生徒諸君がタクシー行動する中、因みに、私は、地下鉄と山陰本線を使って、嵯峨野に足を伸ばした。
 そこで、一首「桂川、渡月の橋に、嵯峨野のみどり、信心深い京の人、人」 桂川にかかる渡月橋で修行僧が托鉢をしていた。そのバックにある嵯峨野の山々のみどりは鮮やか。渡月橋を行きかう人々は、修行僧の鉢に、小銭を入れている人多数。自分の道をしっかり求めて歩いて行くこと。正しいことを深く信じて、他を思う事の大切さ。京都、嵯峨野にて、思い至ったことである。
(平成16年度7月)

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