「学ぶとは、窮に惑わぬ 力なり 子等を導く 指針とすべし」

 あけましておめでとうございます。皆様には、晴ればれと新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。昨年中は大変お世話になりました。今年も、本校教育活動には、深いご理解を賜りますよう何卒よろしくお願い致します。
 さて、元旦には、今年の目標、自分のあるべき姿を思い描き、決意を実行しようとするものです。生徒諸君も、保護者、地域の皆様もきっとそれぞれ決められたことでしょう。
 私も、決意したことが一つあるのです。それは「学ぶとは」ということです。昨年からずっと、人間はなぜ学ぶのかということを考えてきました。そして、今年の決意として、学ぶということは、人間が窮した時、つまり困ったとき、その時にうろたえないような力をつけることだ、だからこのことを生徒諸君に強く伝え、そして、その力をつけてもらおうと考えました。
 中国の哲人、孔子の傑出した門下生に、荀子という人がおりました。荀子は「学は通(つう)のために非(あら)ざるなり」と言っています。つまり、学問というものは、出世(通)のためにするのではないと言っているのです。もちろん、一生懸命学んで結果として資格を取ったり、有名な大学に入ったり、それなりの地位に立つことは素晴らしいことだし、それを否定しているのではありません。
 どんな人でも、窮することすなわち困ることがあるのです。窮する人間は、じきに悲鳴をあげる。しかし、窮したときに苦しまぬ力をつけるために、それを乗り越える力をつけるために「学」があるのです。少し心配ごとがあると神経が衰弱してしまう。心が衰える。そういう時でもその心が衰えないように学ぶのが「学」であります。
 人間の生涯、人生には常に良い天気、暖かい気候ばかりではない。雨の日もあれば、風の時もある。夜もあれば朝もある。災いもあれば幸いもある。どうすれば乗り越えられるか、どうすれば人が幸せになれるかという因果の法則が厳粛に存在すると思う。人生は禍福終始だ。つまり、災いと幸いが交互にやってきて、そして終わるのです。それがわかっているのだから乗り越える力をつけるために学ぶことが必要なのです。窮して惑わぬ力をつけてやること、そのために学ばせること、そのように学ぶことが人生の最優先の目的ではないのかと思います。すぐ逃げる。すぐキレる。そうした人間には、学ぶことの本質をしっかりと知らせ身につけさせなければならないと思うのです。
 「学ぶとは」窮した時に惑わぬ力をつけるためだと申し上げましたが、それは一人の人間としての大前提であって、そのことが出来たならば、あとは大意に人のため、社会のため、人類のために貢献できる人材となって大きく羽ばたいてほしいものです。
 新年に際して、学ぶことの本質を我々大人がしっかりと認識し、子どもの教育にあたっていかなければならないと思います。
 凶悪犯罪、自殺、不登校、青少年の非行、このようなことが後を絶たないのも、人間としての学ぶ本質が理解されていないからだと思います。さあ、今年一年またやり甲斐のある年となります。嗚呼、有り難い、有り難い、意気揚々と新年を迎えました。ご協力、今年もよろしくお願い致します。
(平成16年度1月)

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