「杉野上等兵曹はおそらく敵の水雷(魚雷)が命中したとき、舷外にとばされたのではないでしょうか。広瀬は、三度目の捜索に出た。 中略 広瀬はやむなく杉野をあきらめ、爆破用意を命じ、全員ボートに移った。「みな、おれの顔をみておれ。見ながら漕ぐんだ。」と、言ったりした。探照燈が、このボートをとらえつづけていた。砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。そのとき、広瀬は消えた。」
これは、日露戦争。日本軍による旅順港ロシア艦隊閉塞作戦の様子が「坂の上の雲」司馬遼太郎著により書かれた一文である。日本軍は、旅順港に待機をしていたロシア艦隊を、巨大なロシアのバルチック艦隊が来る前に旅順港に押し込めるために不要な船を数隻爆破する作戦を行った。その中の一隻が福井丸である。福井丸を爆破用意をしている時にロシア軍の魚雷が命中した。広瀬中佐は部下の点呼をとったが、その時杉野兵曹だけが居なかった。広瀬は三度捜索に行った。船底に水が浸ってきた。広瀬は諦め爆破用意を命じ、乗組員全員ボートに乗り移り広瀬自らスイッチを押し福井丸は見事に爆発した。この後広瀬中佐一団の悲劇が起こるわけである。
実はこの一団の中に我らの郷土川口出身の海軍機関一等兵「小池幸三郎」がいたのである。地域の方から教わった。川口神社に行ってみた。川口神社には本殿の裏側に幾つもの末社が並んでおり、決して大きな社とはいえないが、それぞれに神社が建立されている。その中の一つに護国神社があり明治維新以後に、国に殉じた川口市出身の英霊が祀られている。その前に、ボートのオールを漕いでいる精悍な顔をした「小池幸三郎」の銅像がある。その碑文には「君は小池武兵氏の次子 明治十三年七月十五日 川口町二六八番地に生る 明治三十三年十二月横須賀海兵団に入り 同三十五年六月軍艦高千穂の乗組員となる 日露の戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い決死旅順港口第二次閉塞隊に志願し広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して 猛砲火の下に旅順港口の下に突入したが 黄金山の西海半鏈に達した時 ついに敵駆逐艦の魚雷を受けた よって自ら爆沈して任務を完遂した広瀬中佐 杉野兵曹と共に帰らず 英魂とこしえに靖国の霊となる 実に明治三十七年五月二十三日夜である」とある。小池幸三郎は南中の隣の善光寺に葬られ、当時の川口の人たちで彼を知らない者はいないぐらい有名な人物だったのである。
日清戦争、日露戦争と当時の日本は世界の情勢と共に戦争への道へすすんでいった。小池幸三郎もその犠牲者である。しかし、当時、日本の独立を守るためにどんな方法があったのだろうか。アジアの国々で独立国があったのだろうか。欧米諸国と対等につき合いの出来る国があったのだろうか。悉(ことごと)くアジア諸国を植民地にしていった欧米諸国から日本の独立を守るため、欧米諸国と対等に渡り合うために日本は必死であった。そのために、借金をし、そして、多くの国民の犠牲を払い日露戦争を戦った。悲しい時代であったことは間違いない。
東日本大震災の大災害で、私は日本人が変わりつつあり始めたのではないか、と感じている。困った人を助けてやろうとか、思いやりをもとうとか、心の底から行動をしている人を多く見かける。本当に日本のピンチをみんなで乗り越えようと今、必死に日本中でもがいている感じがする。日本人が気づき始めたのか、今までの自分勝手気ままではいけないと。公のために尽くそうと。被災地では悲惨な状況が未(いま)だ続いている。ボランテイアに行った人の話も聞いた。私も行っ
てきたいと思う。貴い犠牲の上に今の日本があることを我々は忘れてはいけない。がんばろう日本。がんばろう南中。
(平成23年度5月)
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